当神社は、山形城主斯波兼頼が山形城の守り神として城内に建立したのが、その始めと伝えられています。それより10代目最上義定が山形城の部内に社殿を建て、12代目義光の時、天童城主との開戦に際して勝利を祈願するなど、最上家代々の信仰が厚いものがありました。
城主や城下の人々が、短冊に歌を書いて神に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋も付近にあったところから歌懸(うたかけ)の名が残ったと伝えられています。
元和8(1622)年、最上家が改易されて新城主となった鳥居忠政は、人心一新をはかり、部内稲荷口(現山形駅付近)にあったこの社を、三の丸の外の現在地に移しました。
それ以後、このご縁日である10日ごとに定期市が門前で開かれ、十日町の名の起こりとなり、その年の最初の十日市(1月10日)を初市と呼ぶなど、城下町の人々と深く結びつき信仰をあつめ、現在に至っております。
|